LOGIN質問というものは、こちらが答えるためだけにあるわけではない。
何を聞かれるか。
誰が聞くのか。
どの順番で聞くのか。
どこまで答える必要があるのか。
そして、何を聞かないと約束してもらうのか。
昨日のロールプレイで、俺は初めて口にした。
「その話題には答えません。事前の範囲外です」
たった一文。
けれど、その一文は、俺の中でまだ少し熱を持っていた。
クロユウではなく、黒瀬悠斗として。
こはるを材料にせず。
怒りをそのまま渡さず。
範囲外、と言う。
できた。
少しだけ。
でも、その「少し」が、朝になっても残っていた。
朝のこもれ
第76話 事前質問表 質問というものは、こちらが答えるためだけにあるわけではない。 何を聞かれるか。 誰が聞くのか。 どの順番で聞くのか。 どこまで答える必要があるのか。 そして、何を聞かないと約束してもらうのか。 昨日のロールプレイで、俺は初めて口にした。「その話題には答えません。事前の範囲外です」 たった一文。 けれど、その一文は、俺の中でまだ少し熱を持っていた。 クロユウではなく、黒瀬悠斗として。 こはるを材料にせず。 怒りをそのまま渡さず。 範囲外、と言う。 できた。 少しだけ。 でも、その「少し」が、朝になっても残っていた。 朝のこもれびは、野菜守備隊の木箱から始まった。 トマト六地蔵。 緑の護衛。 ナス。 白い護衛の大根。 赤の補佐のニンジン二本。 昨日まで整列していたそれらの横に、今日は小さな紙が刺さっていた。【本日の守備担当】 八百屋の親父さんの字ではない。 妙に丁寧な丸文字。 芽衣だ。 まだ来ていないのに、もう痕跡だけある。「先回りしてるな」 俺が呟くと、窓際のこはるがホワイトボードを上げた。【芽衣さんは、守備隊のマネージャーですか】「野菜にもマネージャーがつくのか」【芸能界は、大変です】「野菜界だろ」 こはるは少しだけ笑った。 その笑いが見られただけで、今日はもう少し勝っている気がした。
第75話 黒瀬悠斗として話す 黒瀬悠斗として話す。 たったそれだけのことが、こんなに怖いとは思わなかった。 クロユウとしてなら、まだ分かる。 いや、分かるというより、慣れている。 画面の向こうに向かって喋る。 コメント欄を見ながら笑う。 ゲームの失敗をごまかす。 冗談を言う。 声を張る。 サムネイルで盛られる。 切り抜かれる。 燃える。 クロユウは、名前の形をした舞台だった。 燃えたあと、その舞台は崩れた。 俺は、そこから転げ落ちた。 では、黒瀬悠斗とは何なのか。 元ゲーム実況者。 炎上した男。 田舎の喫茶店で叔父の店を手伝っている人間。 白湯を出す人。 まずいコーヒーを改善中の人。 こはるを拾った人。 こはるに「悠斗さん」と呼ばれた人。 そして今、神谷レン側から「黒瀬悠斗様」と呼ばれている人。 その名前で、話す。 逃げたと思われないためではなく。 こはるを材料にしないために。 相手の椅子に座らないために。 こちらの机で、条件を置いて、範囲を決めて、話す。 理屈は分かる。 でも、怖いものは怖い。 朝のこもれびは、いつもより少しだけ空気が硬かった。 店先の野菜守備隊は、ついに小さな木箱にまとめられていた。 トマト六地蔵。 緑の護衛。 ナス。 白い護衛の大根。 赤の補佐のニンジン二本。 八百屋の親父さんが「散らかるからな」と言って、木箱に詰めていったらしい。 散らかしている本人が整理していった。 商店
第74話 私を交渉材料にしないで 人は、守ろうとしている相手を、知らないうちにテーブルの上へ置いてしまうことがある。 昨日の夜、こはるが書いた文字が、朝になっても俺の頭から離れなかった。【私を、話題にしない条件】 その横に、俺が書いた札。【守るためでも、材料にしない】 書いた時は、分かったつもりだった。 こはるのことを神谷レン側との話し合いに出さない。 月乃こはねのことも出さない。 匿名ラジオの内側のことも出さない。 こはるの所在も、体調も、声のことも、母親のことも、事務所との契約も出さない。 分かったつもりだった。 だが、朝になってカウンターを拭きながら、俺は気づいた。 もし神谷レン側が言ったら? あなたが守ろうとしている人は、本当に安全なのですか。 こちらとしても心配しています。 月乃こはねさんと関係があるのではないですか。 匿名ラジオの投稿は、ご本人の意思表示なのですか。 あなたがその人を囲い込んでいるという見方もあります。 そんな言葉を向けられた時、俺は本当に黙っていられるのか。 いや、違う。 黙るというより、こはるを守るために説明したくなるのではないか。 違う。 あいつは利用されていない。 こはるは自分の意思でここにいる。 声を休ませている。 月乃こはねを嫌いになりたくないから離れている。 白瀬こはるとして、ここにいたいと言った。 そう言いたくなる。 全部、守るための言葉だ。 でも、それを言った瞬間、こはるは俺の交渉の札になる。 俺はそのことに気づいて、布巾を持つ手を止めた。 カウンターは今日も無罪だ。
第73話 ご負担のない形 ご負担のない形で構いません。 その一文は、やさしい顔をしていた。 やさしい顔をしているから、余計に厄介だった。 乱暴な言葉なら、避けやすい。 怒鳴られれば、扉を閉めればいい。 命令なら、断る理由も見つけやすい。 でも、配慮の形をした言葉は、扉の前で靴を脱いでしまう。 こちらが「入らないでください」と言いにくくなる。 神谷レン側マネージャーから届いた二通目のメールは、短かった。ご返信を急かす意図はございません。ご負担のない形で構いません。オンラインでのお話でも問題ございませんので、ご検討いただけますと幸いです。 急かす意図はない。 負担のない形でいい。 オンラインでもいい。 どれも、一見すると譲歩だった。 こちらを気遣っているように見える。 けれど、俺はその文面を見た瞬間、喉の奥が詰まった。 急かしていないと言いながら、もう一通来ている。 負担がない形と言いながら、話す方向へ進めている。 オンラインでもいいと言いながら、会うという前提は消えていない。 やさしい橋。 でも、源三さんが言った通り、優しい橋でも板は見る。 翌朝、こもれびの店先には、トマト六地蔵、緑の護衛、ナスに加えて、大根が置かれていた。 結局、置かれた。 八百屋の親父さんは「白い護衛だ」と言い張った。 もう、店先がちょっとした野菜会議になっている。 俺が無言で眺めていると、こはるがホワイトボードを上げた。【白湯側の守備範囲が広がっています】「野菜で守備を固めるな」
第72話 直接会うという罠 直接会えば、何とかなる。 昔の俺は、そう思っていた。 いや、正確には、そう思いたかった。 ちゃんと顔を見て話せば分かる。 誤解なら解ける。 切り抜かれた言葉の前後を説明すれば、少しは伝わる。 自分の口で言えば、もう誰かに勝手に並べられなくて済む。 そんなふうに考えていた時期がある。 だが、炎上してから分かった。 直接話す場所にも、すでに角度がついていることがある。 相手が用意した部屋。 相手が用意した椅子。 相手が用意した録音のない空気。 相手が用意した「ちゃんと話しましょう」という看板。 そこへ座った時点で、こちらはもう半分、相手の物語に入っている。 翌朝のこもれびは、やけに明るかった。 昨日の夜、神谷レン側マネージャーから来たメールに、俺たちは返事をしなかった。 正式な紙にも、今すぐ返さなくていい。 夜の手紙に、夜返さない。 分からない時は、返事しない。 逃げていない証明のために、急いで返事しない。 そう決めた。 決めたのに、朝になっても胸の奥は落ち着かなかった。 返していない。 まだ返していない。 未返信のメールが、スマホ避難箱の中でじっとこちらを見ているような気がする。 もちろん、スマホに目はない。 ないはずだ。 でも、通知というものは時々、人間よりしつこい目をしている。 俺はカウンターを拭いた。 一回。 二回。 三回。 四回目で、窓際からホワイトボードが上がった。
第71話 今すぐ返事しない 正式な紙は、静かに人を急かす。 画面の中にあるだけなのに、机の上へ封筒が置かれたような重さがあった。件名:一連の件に関する事実確認のお願い**神谷レン側マネージャー:突然のご連絡失礼いたします。神谷レンのマネジメントを担当しております、〇〇と申します。現在、インターネット上にて神谷レンおよび関係者に関する憶測、また過去の切り抜き・発言に関する情報が拡散されております。一連の件について、事実確認のため、黒瀬悠斗様と直接お話しする場を設けられないでしょうか。こちらとしては、誰かを責める意図はなく、誤解がある場合は適切に解消したいと考えております。ご都合のよい日程をいくつかいただけますと幸いです。** 丁寧だった。 丁寧すぎるくらいだった。 だから怖かった。 乱暴な言葉なら、怒れる。 悪意が見える言葉なら、拒める。 だが、丁寧な言葉は、こちらの怒りを先に恥ずかしくさせる。 誰かを責める意図はない。 誤解がある場合は適切に解消したい。 事実確認のため。 直接お話しする場。 どれも、まともだ。 まともな言葉が、こちらの胸を押してくる。 返事をしなければ、逃げたように見える。 返事をすれば、相手の机に近づく。 会えば、話したことになる。 会わなければ、対話拒否と言われるかもしれない。 俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。 閉店後のこもれびは静かだった。 営業中の札は、準備中へ裏返されている。 スマホ避難箱はカウンターの真ん中。 証拠の箱は棚の下。







